資料館・平和講話
平和祈念公園の平和の礎や慰霊塔はガイドの案内をお勧めします。
平和講話は沖縄戦の体験から基地問題まで、当会への要望が大変多く、特に体験者の講話は貴重です。
沖縄県平和祈念公園(糸満市摩文仁)
平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、
南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。
平和祈念資料館、平和の礎、平和祈念堂など、沖縄戦と平和について考えることができる公園として多くの人が訪れます。
県立平和祈念資料館

沖縄戦から復帰までを展示
「戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次世代に伝え、全世界の人々に沖縄のこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、県民個々の戦争体験を結集して」1975年、設立されました。
現在の資料館は2000年にリニューアルしたもので、「鉄の暴風」(第2展示室)、「地獄の戦場」(第3展示室)、「住民の証言」(第4展示室)などの沖縄戦に関する展示、また第5展示室では、戦後の米軍統治、復帰運動などを展示しています。
※要入館料
平和の礎(いしじ)

沖縄戦で亡くなったすべての人を刻銘
沖縄戦終了50年の1995年に当時の知事大田昌秀が「戦争の犠牲になったすべての人」の名前を記そうとして造った礎。
沖縄の住民、日本軍兵士だけでなく、敵として戦ったアメリカ、イギリスの兵隊たち、植民地だった朝鮮半島や台湾の犠牲者の名前も記されています。
毎年遺族から申請があると6月23日に合わせて追加刻銘され、2024年には全部で24万2224人の名前が刻まれています。
海のそばの噴水型の「平和の灯」を中心に、平和の波が世界中に広がるデザインとなっています。
平和祈念堂

平和を祈る大きな平和祈念像
高さ45メートル、7辺形の建物の中に高さ12メートル、幅8メートルの祈念像が安置されています。
像を作った山田真山画伯は、沖縄戦で息子2人を亡くしました。
1957年から18年もの年月をかけ、90歳の時に完成しました。
台座に世界平和の願いを込めた世界中から集められた石がおさめられています。
※要入館料
全学徒隊の碑

戦場に行った10代の犠牲者
沖縄県平和祈念公園内に2017年3月建立されました。
当時沖縄県下にあった12の男子校、9つの女子校の戦没者数は1984人と記されています。
徴兵前の男子学徒14歳から19歳、女子学徒は15歳から19歳まで戦場に動員するために、当時の沖縄県庁学務課、県知事、第32軍司令部参謀との数次にわたる折衝により実施されました。
師範学校以外はあくまでも志願という形で動員されました。
韓国人慰霊の塔

犠牲になった韓国の人たちの慰霊塔
1975年8月、韓国政府の援助も受け、建立委員会によって建立、管理されています。
碑文には『沖縄の地にも徴兵徴用として動員され、艱難を強いられ戦死或いは虐殺され犠牲になった魂を慰めるべく』建てられ、『安らかに眠られよ』と刻んであります。
一万余名といわれる韓国青年達の魂を導く様に石でできた円墳型のモニュメントがあり、手前広場には韓国本国の方向を示す矢印が彫られた石が置かれています。
また、各道から集められた拳大の石が円墳の周囲に置かれています。
また朝鮮半島の出身者の慰霊塔としては宜野湾嘉数高台公園内に「青丘之塔」が1971年3月に建立されました。
ひめゆり平和祈念資料館・ひめゆりの塔(糸満市)

ひめゆり学徒隊の証言が映像で残る
沖縄戦で陸軍病院に動員された沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒・教師(ひめゆり学徒隊)が戦場で体験したことを後世に語り継ぐことで恒久平和を訴える平和ミュージアム。
1989年6月23日、開館。各展示室では生徒の写真、遺品、生存者の証言映像などが見られるほか、南風原にあった沖縄陸軍病院壕20号壕を再現した実物大模型や、ひめゆりの塔の前にある第3外科壕の内部が分かる原寸大のジオラマがあります。
第3外科壕は100人ほどいましたが、ほとんどが亡くなりました。
ガマの後ろにあるひめゆりの塔は1946年に建てられて納骨堂を兼ねています。
※要入館料
佐喜眞美術館(宜野湾市)

圧倒する丸木夫妻の「沖縄戦の図」
「原爆の図」で知られる丸木位里・俊夫妻が1983年から87年にかけて描き上げた全14部からなる連作「沖縄戦の図」を展示する佐喜眞美術館は、1994年に開館。
沖縄に置きたい、との丸木夫妻の思いに応えて、交流していた佐喜眞道夫が米軍普天間基地の米軍が接収し普天間基地の一部になっていた祖先の土地を返還させて、美術館を建てて実現しました。
丸木画伯たちは久米島、首里、読谷村などに住み、戦争体験者から話を聞いてこの絵を描き上げました。
「久米島の虐殺」「「亀甲墓」「喜屋武岬」「チビチリガマ」など詳細な沖縄戦の記述を表した画面は見る者を圧倒する大作。
修学旅行生が訪れると佐喜眞館長がこの絵の意味などを説明してくれます。
※要入館料
対馬丸記念館(那覇市)

九州へ集団疎開する学童ら1484人が遭難
沖縄戦で米軍が上陸する前年1944年、政府は沖縄県などから戦争に役に立たない子供や年寄りを本土や台湾へ疎開させようとしました。
同年8月21日、教師に引率された国民学校の子供たちは対馬丸に乗って那覇港を出港しましたが、翌22日夜、トカラ列島悪石島沖で米軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没。
乗組員は全員海に投げ出され、乗船者約1800名の内、学童784人を含む1484人が犠牲になりました。
学童の悲惨な体験、沖縄戦の歴史を後世に正しく伝え、未来の子どもへ平和と命の尊さを発信する場として建設されました。
常設展示では犠牲者の氏名や遺影、また生存者や遺族の証言、当時の学校教室や船倉ベッドの復元を見ることができます。
また、対馬丸記念館公式ガイドブックも発行。
館の近くに犠牲者たちの慰霊塔「小桜の塔」があります。
※要入館料
南風原文化センター・沖縄陸軍病院壕(南風原町)

陸軍病院壕と平和を考える資料館
ひめゆり学徒222人が看護要員として動員された沖縄陸軍病院。
南風原町の黄金森には、30の壕が掘られ、陸軍病院の病室として使われ、ひめゆり学徒たちが勤務していました。
現在その中で20号壕が発掘され、ガイドの案内で中を見学することができます。
丘を越える道は炊事場から患者たちへ食事を運ぶ「飯上げ」に使った道として辿ることができます。
丘のふもとにある南風原文化センターは陸軍病院の模型や映像、発掘によって出てきた遺物を展示、合わせて沖縄戦を学べる場所です。
※要申し込み、要入壕料・入館料