米軍基地
嘉手納基地(嘉手納町・沖縄市・北谷町)

極東最大のアメリカ空軍基地
沖縄戦に備えて日本軍が建設した陸軍中飛行場が嘉手納飛行場になりました。
米軍が占領し、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て4千㍍級の滑走路2本を有する「極東最大の空軍基地」として整備拡張されました。面積は19・86平方キロメートル(羽田空港の約1・3倍、東京ドームの約425倍)で、嘉手納町、沖縄市、北谷町の1市2町にまたがっています。
嘉手納町面積の82%は米軍基地で占められています。
米空軍の戦闘機、空中給油機、救難機、特殊作戦機などが常駐しているほか、米海軍の対潜哨戒機、電子偵察機なども常駐しており、米本土からも飛来します。
パラシュート訓練も日米合意を無視して飛行場内で行われている。米軍基地80年間には、宮森小学校へのジェット機墜落事故、B52爆撃機の墜落炎上事 故などが起きたほか、騒音公害に関して裁判が何度も提起されています。
写真は道の駅かでなより。
普天間飛行場

海兵隊のヘリコプター基地
沖縄戦の日米激戦地。
日本軍に勝利した米軍は日本本土爆撃のためにここに飛行場を造りました。
そこに住んでいた住民は南部に避難。
戦後住民は戻ろうとするが、米軍基地として使われていたため飛行場周辺に住まざるを得なかったのです。
宜野湾市の中心部にあり、飛行場の面積は約480ヘクタールで、この基地がある宜野湾市の面積の約4分の1を占めます。
航空機の騒音被害や事故は多発し、視察に訪れた当時のラムズフェルド米国務長官は、「世界一危険(な飛行場)」と表現したほど。
実際に2004年には大型ヘリが沖縄国際大学の建物に墜落、激突する事故が起きました。
県民の反対を無視してオスプレイが配備されましたが、その4年後には1機が名護市の海岸に墜落。
1995年米兵による少女暴行事件をきっかけに米軍は返還を決め、日米両政府交渉の結果1996年返還が決まりました。
しかし米軍は代替地を県内に求めたため、いまだに返還されていません。
名護市辺野古の海兵隊基地キャンプ・シュワブの海域を埋め立て、代替飛行場として提供するため、日本政府は埋め立て工事を進めています。
辺野古新基地(名護市)

県民投票や選挙で県民は建設反対を表明
1996年のSACO合意で、日米両政府は普天間飛行場の代替地として日米両政府は「沖縄本島東海岸沖」を決めました。
「辺野古・命を守る会」など住民は反対を表明し、97年12月の名護市民投票で移設反対の民意が確定。
しかし2013年、仲井真知事が公約の県外移設を翻して、埋め立て申請を「承認」。
14年7月、沖縄防衛局がボーリング調査に向けた作業強行開始。
キャンプ・シュワブゲート前の県民らによる座り込み、海上抗議行動が始まりました。
18年12月、沖縄防衛局が辺野古海域への土砂投入を強硬開始しました。
19年2月、「辺野古埋立ての賛否を問う県民投票」では反対票が72%を占めています。
24年1月、沖縄防衛局が大浦湾に土砂投入。
しかし完成の見込みはない、というのが実態です。
13年に承認された沖縄防衛局の当初計画では、18年には埋立てが終了し、22年には新基地が完成しているはずでした。
また工事費も2019年12月の発表では総額9300億円でしたが、すでに計画額を超えた項目もあり、1兆円を超える可能性が高いと言われています。
県の試算では最大2兆5500億円。
軟弱地盤の難工事で完成するかどうかわからない辺野古新基地。
キャンプシュワブのゲート前の座り込み、船やカヌーでの海上抗議活動のほか、砕石搬入地の安和、塩川でも市民の抗議活動が行われています。
沖縄の米軍基地問題は沖縄県のHPで詳しく解説しています。