ガマ・戦跡・歩く平和学習
ガマ・戦跡
1.アンディラガマ(糸満市)
2.山城本部壕(糸満市)
3.師範健児の塔のガマ(糸満市)
4.ウッカーガマ(糸満市)
5.轟の壕(糸満市)
6.荒崎海岸(糸満市)
7.魂魄(こんぱく)の塔(糸満市)
8.白梅の塔(糸満市)
9.ヌヌマチガマ(八重瀬町)
10.糸数アブチラガマ(南城市)
11.旧海軍司令部壕(豊見城市)
12.第32軍司令部壕(那覇市)
1.アンディラガマ(糸満市真壁)

真壁住民の避難壕、終盤には軍民混在状態のガマ
「萬華の塔」がある広場の奥にガマの入り口があります。
ガマの中は天井が高く比較的平坦ですが、さらに奥には細い通路のような鍾乳洞が続いています(奥へは立ち入り禁止)。
沖縄戦当時に使われていたと思われる食器の破片など当時をしのばせる遺物が残っています。
戦争が始まって間もなくは真壁住民の避難壕として、5月からは日本軍の陣地、また戦争終盤では日本兵と住民が一緒に隠れていました。
日本軍敗残兵による幼児虐殺があったとの証言も残っています。
2.山城本部壕(糸満市山城)

住民を追い出して沖縄陸軍病院本部が使用
沖縄戦で山城の住民が使っていた避難壕で、地元ではサキアブと呼ばれています。
5月末、南風原から撤退してきた沖縄陸軍病院本部勤務者が入っていたことから山城本部壕と呼ばれています。
6月14日米軍の直撃弾により、病院長、衛生兵、炊事婦、ひめゆり学徒らが即死、または負傷しました。
沖縄陸軍病院は6月18日に解散命令が出され、学徒隊は、各自自由行動となりますが、犠牲者はその後の方が多くなりました。
沖縄陸軍病院解散後は、この壕は避難民、日本兵など雑居状態となります。
3.師範健児の塔のガマ(糸満市摩文仁)

平和祈念公園の西の端、摩文仁の丘の平和の礎と反対側にあります。
沖縄師範学校男子部は、職員も含めて386名が軍命によって戦場に動員され第32軍司令部と行動を共にし、226名が亡くなりました。
その師範学校の生徒たちの慰霊塔「沖縄師範健児の塔」の後方にガマがあり、摩文仁の丘の中腹にあった第32軍司令部の人たちの炊事場などに使われていました(写真はそのガマに入って見学をする修学旅行生たち)。
ガマは米軍の軍艦からの弾が死角になっていましたが、空からの攻撃でその時にガマにいた多数が死亡。
4.ウッカーガマ(糸洲の壕)(糸満市糸洲)

積徳女学校の生徒たちが動員された野戦病院
糸満市糸洲にある鍾乳洞。洞窟内は川が流れています。
糸洲の住民避難壕でしたが、第24師団第2野戦病院(小池隊長)が入ってくるために避難住民は追い出されました。
同野戦病院は最初豊見城城跡に開設され、私立積徳高等女学校の学徒(25人)が看護要員として動員され負傷者の看護などに当たっていましたが、第32軍司令部の南部撤退に伴い、この壕へ移動しました。
組織的な戦闘が終わった6月26日、小池隊長は「生き残って戦争の悲惨さを伝えてくれ」と生徒たちに話し解散命令、学徒らは脱出しましたが小池隊長は、洞窟内で自決しました。
小池隊長の出身地長野県佐久市が洞窟の階段・手すりなどを整備し、入壕しやすくなりました。
5.轟の壕(糸満市伊敷)

約1000人の住民が隠れていた
※入口付近に落石があったので現在、当会では団体の入壕案内はしていません。個人・少人数のグループはお問い合わせください。
お問い合わせ
ドリーネが大きなガマで、階段が地下のガマ入口へと続いています。
ガマの中には川が流れていて、沖縄戦では大勢の人たちが避難していました。
6月以後は住民、日本兵、沖縄県庁職員などが入ってきて雑居状態になり、多い時は約1000人がいたといわれています。
日本兵による住民虐殺や、自決があったという証言が残っています。
映画「ガマ 月桃の花」の舞台になりました。
6.荒崎海岸(糸満市)

追い詰められたひめゆり学徒隊10人が自決
沖縄戦の末期、南下するアメリカ軍に追われるように住民、日本軍は喜屋武半島の海岸に向かいました。
一番南の端、荒崎海岸一帯には多くの人たちが隠れ場所を求めて集まっていました。
この中に一部のひめゆり学徒隊がいました。
6月21日、平良松四郎先生に引率されたグループの生徒らは米兵の自動小銃の乱射の中、10人が手榴弾で自決しました。
その場所には亡くなった生徒の名前が刻銘されている「散華の跡」の碑が設置されています。
7.魂魄(こんぱく)の塔(糸満市米須)

県内で最初に造られた慰霊塔
糸満市米須にある戦後沖縄で最初に造られた慰霊塔。
沖縄戦が終結した翌1946年1月、米軍の指示により、米須に移動させられた旧真和志村民は金城和信村長のもと、遺骨収集班を作って摩文仁の野に風雨にさらされていた万余の遺骨を集め、納骨堂としてこの塔を作りました。
その後、米須の住民が遺骨収集を続けます。
激戦地であったこの周辺は、大勢の犠牲者の遺骨が残されていて、当初の納骨数は県内最大となる3万5千人を数えていました。
その後遺骨は国立戦没者墓苑に移されました。
今でも毎年6月23日の慰霊の日には県内各地から多くの人々が参拝に訪れ、別名「沖縄県の塔」ともいわれています。
周囲には北海道、奈良県、広島県などの慰霊塔があります。
8.白梅の塔(糸満市国吉)

県立第二高等女学校の慰霊塔
那覇にあった県立第二高等女学校4年生の生徒たち46人が、沖縄戦で看護要員として南部八重瀬岳にあった24師団第1野戦病院に動員されました。
4月下旬から新城分院に5人が移動。
6月には戦況が悪化したため八重瀬岳に戻り、解散命令が出ます。生徒たちは数名ずつの班を作って南部に向かいます。
そのうちの15人がウテル原(現在白梅の塔がある場所)第一野戦病院の部隊に合流しました。
下のガマと上のガマがあり、上のガマは倉庫兼休憩所として使われていました。
6月18日アメリカ軍の無差別攻撃により、15人中6人が亡くなり、4人は重傷、3人だけが生き残ることができました。
9.ヌヌマチガマ(八重瀬町)

24師団の野戦病院として使われた。
八重瀬町戦争遺跡公園の一角にある、全長500mの自然壕です。
沖縄戦当時、第24師団の第一野戦病院新城分院として使われました。
軍医、看護婦、衛生兵、地域の女子青年団、婦人部らと共に、沖縄県立第二高等女学校の生徒(白梅学徒隊)が看護要員として派遣され、多くの負傷兵の看護に従事させられました。
戦況の悪化で千人を越える負傷兵が送り込まれ、食事のおにぎりも一日一回になり、薬剤も不足する中、睡眠不足と過労を押して日本軍のために働きました。
米軍が接近した6月3日分院撤退が命じられ、独歩患者が壕から出され、重症者は青酸カリ水溶液を飲まされ、銃や剣で「処置」されました。
その数はここだけで約500名とされています。入壕申込み必要。
※有料
10.糸数アブチラガマ(南城市糸数)

沖縄陸軍病院の分室
全長260メートルの大きな鍾乳洞。沖縄戦では米軍上陸までは日本軍の陣地壕として整備、使われていました。
5月からは沖縄陸軍病院糸数分室として使われ、ひめゆり学徒隊16人が傷病兵と共に南風原から移動してきました。
多い時、傷病兵は約600人いたといわれています。
沖縄陸軍病院は5月末に重症患者を残して撤退。
その後糸数の住民も入ってきて、日本兵と住民が雑居していました。
壕内には当時の井戸、かまどなどが残っています。
ひめゆり学徒隊や住民の証言も多く残っています。
※有料、要予約
11.旧海軍司令部壕(豊見城市)

海軍の兵士約2000人が犠牲になった
全長450メートルの、兵士によるツルハシやクワでの手掘りの壕です。
そのうち現在は300メートルが公開されています。
かまぼこ型に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で固め、米軍の攻撃にたえ、持久戦を続けるために作られた地下陣地壕で、4千人の兵士が収容されていました。
資料館や、沖縄戦に関する写真の展示もあり、平和を学べる資料館として修学旅行生や観光客が多く訪れています。
12.第32軍司令部壕(那覇市首里)

沖縄戦の中枢、作戦を指揮
首里にある第32軍司令部壕は全長約1000メートル。
牛島満司令官や日本軍の兵士以外、新聞社特派員、辻の女性たちなど1000人以上がいたといわれます。
住民の犠牲の拡大につながる軍の南部撤退など重要な作戦がここで決められました。
出入り口が5か所確認されています。
壕内は立ち入ることはできませんが、県が発掘調査を進めていて、その中の保存状態が良い第5坑口周辺を2027年公開予定。
沖縄県は2024年に県指定戦争遺跡に指定しました。
県の戦争遺跡の指定は初めてです。
歩く平和学習(糸満市、那覇市)
ガイドと歩いて沖縄戦や平和を考える

戦跡や慰霊塔、ガマなど歩いて巡り、ガイドから説明を聞く2~3時間のコース。
そのグループのペースでコースを選ぶことも、ゆっくり進むこともできます。
ご年配の方がいらっしゃるグループや家族連れにも人気です。
コースや時間についてご相談ください。
・2時間~3時間
・最低催行人数5人
ひめゆり学徒隊コース(糸満市伊原~山城)

ひめゆり平和祈念資料館を出発点に、ひめゆり学徒隊が動員された沖縄陸軍病院が入っていた第一外科壕、本部壕、第三外科壕などを回ります。
女子学徒コース(糸満市伊原~米須)

激戦地糸満市米須には、軍隊の看護要員として動員された女子学徒の慰霊塔が点在しています。
県立第一高等女学校、師範学校女子部の「ひめゆりの塔」、昭和女子高等女学校の「梯梧之塔」、首里高等女学校「ずゐせんの塔」などを回ります。
白梅学徒隊と激戦地国吉(糸満市国吉)

県立第二高等女学校「白梅学徒隊」が大勢犠牲になった国吉の下のガマ、上のガマやその慰霊塔である白梅の塔、国吉の慰霊塔、32連隊のウフ壕、アメリカ軍の司令官だったバックナー中将慰霊塔など激戦地だった国吉で沖縄戦を学びます。
平和祈念公園~摩文仁ヶ丘~男子学徒を考える

「平和の礎」、「全学徒の碑」、「工業健児の塔」、「沖縄師範健児之塔」、金井戸を回りながら14歳から軍隊に動員された男子学生について考えます。
米須一家全滅の家~魂魄の塔

糸満市米須は一家全滅した家も多く、いまだに家がなく香炉だけを祀っている場所があります。
米須から魂魄の塔、近くの米須海岸と激戦地を歩き、沖縄戦の実相を見て回ります。
第32軍司令部壕と沖縄師範学校(那覇市首里)

古都首里には全長約一キロの日本軍地下司令部壕があったため、上陸した米軍の猛攻撃を受け首里は壊滅しました。
司令部壕は27年復元を目指して現在調査中ですが、残っている壕入り口や沖縄師範学校の避難壕だった留魂壕など首里に残る戦跡を回ります。